1 はじめまして
平成26年12月25日、妊娠が発覚した。なぜ正確に日付を覚えているかといえば、その日がクリスマスだったということもあるし、前日に届いた一通のメールが原因でもある。
メールの送り主は前部署の先輩で、四つ年上の男性だった。やたら理屈っぽくて、一尋ねると無骨な口調で百返ってくる、といった風情の人であったが、あっさりした文面には驚きと喜びが満ち満ちていた。
「こんなの出てきた」、という言葉に添えられた、生まれたての白い薄布にくるまれた赤ん坊の写真。結婚しているのも知っていたし、子供がとても好きだということも聞いていたけれど、奥さんの妊娠の件は全く承知していなかったから本当にびっくりした。つい二ヶ月前に飲み屋で一緒になったばっかりだったっていうのに。
それと同時に、とても幸せな気持ちになった。心の底からおめでとうと思って、メールではなかなか伝えきれる気がしなかったけれど、一生懸命そんな文字を打ち込んだ。そして、ふと思った。
これは、今日、自分も……あるのでは?
二十五歳のときに五つ年上のだんなと結婚し、一年と少しが経っていた。自分が兄弟たくさん、というより弟たくさん、で育ったこともあり、せっかく早めに結婚できたのだから、子供も近いうちに欲しいなあとは思っていた。
しかし、私たち二人は旅行が好きだった。国内も、海外も。職場の同期として出会い、おもに(現)だんなの企画によって、つきあう前から仲間うちで月~隔月に一度のペースで旅行を楽しんでいた。
新婚旅行もポルトガル~スペイン~モロッコ横断(縦断?)十数日間と、たいがい勤め人には似つかわしくない日程で満喫し、次に行きたいと挙げる場所も枚挙に暇がなかった。
子供ができれば、夫婦で旅行を楽しむのは難しくなる。家族旅行はお金も倍かかるし、なにより小さい子供が旅行を楽しんでくれるとは限らない。自分にしたって小さい頃は、よっぽど近所のショッピングモールや近場のテーマパークのほうが楽しかった。親の趣味につき合わせすぎるのは忍びない。
だんなが同じことを考えていたかは知らないが、結婚当初から家族計画の話はしていたものの「まだいいかな」でいつも話は終わっていた。「もう少し二人の生活を楽しみたい」と彼は言い、「子供……欲しいだろうか……うーん……」と、悩むそぶりも見られた。
そんなだんなが、変わったのだ。
ある晩、並んで布団に寝転がり、もう電気も消したあとのことだった。彼が突然言った。
「最近ね……子供が欲しいかなと思うんだ」
「……いつか? 近いうち?」
私は少し驚きながら尋ねた。
「近いうちに。そう思うようになった」
二人もいいけど、家族を作りたい。重ねてそんな風に言われると、ただ嬉しいとか幸せとか単純な感情ではなくて、お腹の底から幸福だなあと湧き上がるような、そんな思いがあった。
家族になるんだ。それはなにか夫婦のステージが、どんと上がるような気分だった。
……とはいえ。
「赤ちゃん、つくろうね。でも……九月にフランス行くからその後のほうがいいかな」
「それは、そうだね。ワイン飲みたいしね」
ちょうど、夏休みを利用して二人でフランスを旅行する計画を立てていたところだった。レンタカーを借りて、南西部の田舎町をまわりながら、美味しいフランス料理とワインを楽しむのだ。つわりで海外旅行が散々だったという話はたくさん聞いたことがあるし、そんな羽目に陥るわけにはいかない。
「あと……私、十月に沖縄に行くから、さらにその後のほうがいいかな」
「そうなの?」
そしてフランスの翌月には、珍しく友人と旅行にいく予定もあった。
「うん。泡盛飲みたいし」
「そっか。……ふーん」
そんなわけで、子づくり活動は二、三ヶ月後に実行、ということになった。妊娠が発覚するクリスマスの、半年くらい前の話だったと思う。
ちなみに、泡盛を理由に私が子づくりを延期した件については、その後何度かだんなに蒸し返されることとなるのだが……そんな話はまた今度。
フランス旅行も終わり、沖縄旅行も終わり、いよいよということになった。転職したばかりのだんなの仕事も忙しいし、さすがに毎日やりまくるというわけにもいかないので、私は基礎体温を計ることにした。
家に体温計がなかったので、購入するところから始まったのだが、まず、おそろしく種類がありすぎて混乱した。
基礎体温計というものが普通の体温計と何が違うかというと、体温を小数点以下二桁まで細かく計れる点だ(微妙な日々の体温の変化を記録するので、そのくらい細かくないと無意味らしい)。しかし、どれもこれもそれに加えて、ありとあらゆるオプションが備え付けられていた。
計測結果を480日分保管してくれるだとか、自動でパソコンにデータを転送してくれるだとか。十秒で計れるだとか、排卵予定日を教えてくれるだとか。やれ防水がうんぬん、形がうんぬん、色が、電池持ちが、値段がうんぬん。
結局、口の中で計るタイプの一番シンプルなものにした。値段は千円と少し。計測結果はiPhoneのアプリで記録すればいいやと考えた。
毎朝目覚ましで起きたら、枕元に手を伸ばし、体温計を口に突っ込む。ものの数十秒でピピピと鳴るので、表示された数値を基礎体温アプリに記録する。なんとなく、排卵日はここらへんかなと予想がつくくらいには、山あり谷ありのグラフになってくれた。
最初は、空振りだった。
生理予定日から遅れること数日。ここ一年近く、きちんと28日周期でやってきていただけに「まさか最初で!?」と、期待半分不安半分で検査薬に手を伸ばした。もちろん、早すぎることは承知のうえだ。
結果、真っ白な窓はぴくりとも反応しなかった。
トイレでひとり、真面目な顔で検査薬に尿をかけ、いつまで待っても反応がなく、しょんぼりドアに手をかけてゴミ箱に向かうほど悲しいことはなかった。たったのひと月めで何をそんな大げさな、と自分でも思うのだけれど、来るか来ないかわからないものをひたすら待ち続ける、プレッシャーという存在のかけらを感じた。
だって、いつになるかわからないし、子供ができる身体という保障もないのだ。今までろくに身体に気を使ってこなかったことや、一年半前に卵巣膿腫の手術を受けたことを、嫌な方向にばかり考えた。
それでも、まあまだ一回目だし。と当たり前の切り替え方をして、ネットで妊娠初期まで必須だという、葉酸のサプリメントを注文した。
翌月も、基礎体温表をもとに当たりをつけて、排卵予定日前後の一週間くらい、きわめて真面目にセックスした。「ほんとに来てくれるかなあ……」と私が不安を口にすると、だんなが「大丈夫。ぜったいきてくれる」と(おそらく)根拠のない台詞を力強く口にしてくれて、そのたびとても慰められた。まだ結婚するまえ、突然私が情緒不安定になり「もし自分が子供のできない体質だったとしても一緒にいてくれるか」とワンワン泣きながら尋ねたとき、「当たり前だよ。ずっと一緒にいる」と答えてくれたことを、何度も思い出した。
そんな状況での、先輩からの「生まれました」メールだった。
ちょうど、生理予定日からは一週間近くが過ぎたところで、毎朝計る体温は高いままだった。
朝一番がいっとう反応が出やすいと聞いていたので、そわそわしながら翌朝を待つ。だめかな、だめかなと何度も思いながら検査薬を使うと、白い窓にくっきり青い線が浮かび上がった。慌てて、まだ布団の中だっただんなの元に向かう。
「赤ちゃん、きてくれたよ」
「ほんと?」
なぜか恥ずかしいような気もしたが、恥ずかしがることもあるまい、と検査薬を見せた。
「ほら!」
「……どう見るの」
「この、青い線が出てたら陽性なの!」
「……ほう」
眠いのか何なのか、はかばかしい反応は得られなかったが、私はとても満ち足りた気持ちで、同時に言いようのない不安も感じていた。……ほんとに、これが陽性なら、いるんだろうか? 私のお腹の中に?
まあ、何にせよ、検査薬で陽性が出なければ始まらないのだ。
私は「なにかとんでもないこと」が始まったことにとてつもなくそわそわしながらも、平日だったのでやむなく仕事に行き、終業後は家にある限りの暖かい衣服を着込んで、千葉県は新木場に向かった。寒風吹きすさぶ新木場コーストでは、その日THE BACK HORNというバンドの、年に一度のお祭りライブが開催される予定だったのだ。
いつも飛び跳ねているフロアからはずっと遠く。二階の指定座席に腰掛けて、私はライブを観賞した。
まだぺったりしたお腹を撫でながら、一曲目の「惑星メランコリー」から馬鹿みたいにぼろぼろ泣きながら……それが私の、そして赤ちゃんの、生まれて初めての(まだ生まれてないけど)胎教になった。
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私が買った基礎体温計はこちら。シンプルイズベスト。記録はiPhoneのアプリでつけてました。
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