みことの日記

2015年8月長男、2017年9月次男 育児の記録

2 黒ゴマちゃん

 妊娠の発覚した私は、がぜん忙しくなった。THE BACK HORNのために年休を使ってしまったので、休みは取りづらい。かといって、のんびりしていては病院が年末の休暇に入ってしまう。なんとか近所の医院を検索し、土曜日でも予約なしで診療してくれる産婦人科を見つけてそこに行くことにした。暮れもおし迫った12月27日のことだった。
「本日のご用件は?」
「あの、妊娠判定をしていただきたく……」
「うち分娩取り扱ってませんけど」
「あ、それで全然、大丈夫です」
 受付の女性が、何というかとても冷たくてコワイ感じの人で、病院というものに慣れていない私はさっそくびびってしまった。どのくらいこわいかというと、この病院は診察券を発行しない(毎回受付用紙に記入する)形式だったのだが、通っている数ヶ月の間毎回ひとりは必ず、
「初診ですか」
「すみません、以前来たことがあるんですが、診察券をなくしました」
「うち診察券出してませんから。よくこちら読んでください」
 とやり取りし、説明書きをピシッと指さされる、といった具合なのだ。そのたび私は「まただよ……」と待合室の隅で小さくなるのだった。


 なんてことを言っている間に、診察である。
 こちらは同じ女性でも、ものすごいパキパキきびきびした感じの先生だった。
「はい、検査薬陽性だったのね。とりあえず見てみましょう」
 え、もう? もっと質問とかしないの? という間もなく、あの足をびろーんと開かされる診察台に載せられ(いや自分で座ったのだが)、生温かいような熱いような器具を突っ込まれた。
「あーあー……いますね。これ」
「え? この、黒い点みたいな……?」
「そうです。妊娠してますね」
 おめでとうございます、とは言われなかった。いろんな事情の人がいるからだろうか。
「予定日は8月27日です。うちでは出産できないけど、病院は決めてますか?」
「いや、まだ、これから……」
「じゃあ宛名はなしでお手紙書いておくからね。持って行ってくださいね」
 ここにくるまで一、二日の猶予はあったけれど、妊娠については半信半疑だったのだ。というより、あまり嬉しくなりすぎて「やっぱり違いましたー」となってガッカリするのがこわかった。
 だから、色々調べようとする手ものろのろしていたのだけれど、もうとっとと産む病院を決めて、とっとと予約しなければならないらしい。とたんに、現実感が沸き上がってきた。
「あとこれ。今日のエコーの写真です」
 紹介状と一緒に、ぴらぴらした白黒写真を渡された。さっき見たばかりの映像がくっきり写し出されている。
 もやもやとした子宮の中に、はっきり黒い点が、たしかな存在感をはなって鎮座していた。
「なんか……黒ゴマみたい、ですね……」
「まだねー、ちっちゃいね。でも、どんどん大きくなるからね!」
 気持ちの置き所がうまく見つからない私に、先生はにこにこしながら言ってくれた。
 帰路はこれまでの人生にないくらい浮き足立っていた。電車にのるにも、信号を待つにも、ああ私妊婦なんだな……とフワフワふわふわ思考が飛び散り、止まらなかった。
 しかし、家で待っていただんなにさっそく写真を見せて「黒ゴマちゃんだよ!」と喜び勇んで報告すると、なんだか様子がおかしいのである。
「黒ゴマじゃないよ、赤ちゃんだよ……ひどい……!」
「ん?……え!?」
 そんなつもりなんて全くなかった。黒ゴマ、かわいいなと思って大好きよと思って言ったつもりだったのに、だんなには伝わらなかったらしく、あやうく本気で泣かれそうになってしまった。

 

 さて、のんびりしている暇はなかった。とはいえ、何かできることもなかった。
 どういうことかといえば、私が住んでいるのは神奈川県横浜市。全国的にも出産難民になりやすいとして有名な地域なのである。案の定、市のホームページで調べてみれば、八月上旬の出産まで予約がいっぱいの病院も少なくなかった。私の予定日の直前ブロックである。おまけに、電話をかけようにもどこの病院も年末年始休みに入っている。さてどうしたもんかな……途方にくれてしまった。
「病院なんだけどね。候補がみっつあるんだけどどこがいいと思う?」
「それぞれ、どんなとこなの?」
「一つは個人病院ですごく評判がいいけど費用が高い。あと二つは総合病院で、一つは完全個室でうちから近く、もう一つは職場から近い。どこも年明けてからで予約取れるのかはよくわからない……」
 出産予約のしくみも病院によってまちまちで、そこも途方にくれる要因だった。受診しないと予約不可のところ、電話予約後受診してくださいというところ……受診に際しても、予約必須だったり飛び込みオッケーだったりとまちまちすぎる。パズルのように頭の中がこんがらがった。
「家から近くて、ちゃんとしてるとこなら大丈夫じゃないかな」
 その一言で、自宅からふた駅の、完全個室の総合病院に決めた。実は、ゼミの教授の奥さんが出産したときに「あそこの助産師さんのことを僕は一生恨んでいるぞ……」と発言していたことが心の片隅に引っかかっていたのだけれど、まあ大きい病院だし、どこに通うにしたって一人や二人、先生や看護士さんのあたりはずれはあるだろう、と結論づけた。


 その病院は、基本は予約診療だけれど予約外も受けてくれるということで、休み明けの1月5日に年休を取り朝一番で受診することにした。ロビーで受付開始をまちながら職場に電話をかける。ちょっとどきどきしたけれど、「正月早々なんの病気だゴラ」と問い詰められることもなくあっさり「お気をつけてー」の一言だったのでほっとした。
 そして。
 年末の受診から十日も経っていないのに、黒ゴマちゃんはすでに黒ゴマではなかった。
 数センチもなさそうなまっくろな雫の中に、直径三ミリメートルの白いかたまりとしてぽっかり浮かんでいた。心臓、なのだろう。小さなちいさな光が、ぴかぴかと明滅していた。
「もう、こんなに……」
 たったの十ヶ月でゼロが三キログラムに、ゼロが五十センチメートルに大きくなるのだ。わかっていたつもりだったけれど、びっくりして、涙が出そうになった。
 案じていた出産予約は無事とれ、諸々の資料を渡されるまでに優に三時間は待ち、三十週までの検診は、ここではなく妊娠判定してくれた病院で受けることに決めた。なんだかんだ大変だった。
 そして、ようやく病院を出ようという頃……なんとさっそく食欲が消え失せていた。
「すみません。リーダーいますか?」
「はいはい」
 午前休では足りなくなりそうだったので、再度職場に電話もかける。
「あの、病院終わったんですけど、私妊娠しちゃってて」
「あら、そうじゃないかと思ったのよ! まあまあ、おめでとう!」
 娘を三人育てながらばりばり仕事をこなしているリーダーのゆうこさんは、まるで親戚のおばちゃんみたいに私の身体を気遣ってくれた。
「今日は今から出勤するのね。最初が一番肝心なんだから無理しちゃだめよ。自分を第一に、休めるだけ休みなさいね」
「ありがとうございます」
 そのときの私は、その言葉のありがたみを十分理解しているとはまだ言い難かったのだけれど、それでも早速「つわり」という異変が自分の身体に押し寄せるのを感じていた。
 区役所に寄って母子手帳を受け取り、さて昼食を取ろうと思うが「いや、無理。固形物は無理、ゼリーしか無理」。しかたなくドラッグストアでゼリー飲料を購入して、職場に向かう。そして電車に乗っている最中も、得体のしれない気持ち悪さが、喉から胃にかけてじわりと染み出している感覚を、ずっと拭えなかった。